人の痛みなんて分かる筈がない

一昨日、色々な友人達に会って感じたこと。
色々な環境に生きる人がいる。貧富の差、能力の差、健康だったり病んでたり、住んでいる地域が違ったり。そういうものに応じた、色々な立場や考え方がある訳で。
30代になったら*1、みんなそれぞれ、形は変われど、何らかの傷を負って生きているのじゃないかと思う。それはわざわざすべての人に言って回るようなことじゃないから、普段はみんな何も言わないで生きているけど。
見た目チャラチャラしてて何の不幸もない様な感じに見えるからと言って、本当に辛いこと知らずかって、そんな事はなくて、それぞれに負っているものがあったりする。それ(つらい経験)を言うか言わないかは本人の美学の問題でもあったりするけど、辛いと言わない人が辛くないとは限らないのだ。
だから、自分だけ不幸だと思ったら、間違いだと思う。不幸な人は、ホントはもっといる。でも、その不幸は他人からは些細な不幸に見えたとしても、本人にとってそれが些細なことかと言うと、決してそうだとは限らず、それは他人が決めつけるような事ではない。
私は、「傷ついた人は傷ついた人の気持ちが分かるからそれだけ人に優しくなれる」とは思わない。そういう人もいるだろうし、そうじゃない人も、いるだろう。まあ、そんなに単純にパターン化できないのが人間で、同じ経験をしたとしても、それで感じる感じ方はそれぞれで、反応もそれぞれなのが当然な気がする。
たとえば病気を替ったりする事なんて不可能だ。他人に同じ経験など出来るはずがないのだから、その痛みはその人だけのもので、他人になんか分かりっこないのが当然なのだ。辛かったことを訳知り顔で「大変だよね」なんて言われたら私だってムカつくし、頑張っている人間に対して気安く「頑張ってね」なんてのたまわれた日には「こんだけ頑張っているのに、コレ以上頑張れというのか・・・」と絶望することもあるだろう。
私は「人類みな兄弟」なんていう気はさらさらない。高邁な理想は理想として、現実的には、「全人類」はおろか、すぐそばの人間でさえも、みなを理解し、理解し合うことは難しい。
だけど、私は、「袖振り合うも多生の縁」というべきだろうか、ちょっとでも関わった人はとても気になるし、できれば幸せでいて欲しいと思う。
人が落ち込んだ時のその絶望感は、他人は本当には分かり得ない。分からないのだけど、例えば、電話をしたり会ったりする事で、少しでもつらい気持ちが和らぐなら、私は、いつでも連絡して欲しいと思うし(勿論社会人としての常識の範囲内で、ですが・・・)、何かできる範囲で手助けになることがあれば、力になりたいと思う。ちょっと暗い顔をしている人がいれば「元気ないね?」と声をかけてみたい。そっとしておくことがもしその人のためならば、聞きたい事があってもぐっとこらえて、何も気づかないふりをして、そばにいたいと思う。
知っている人が、気になる人が、ましてや、自分の好きな人たちが、辛い思いをしているとすれば、助けになりたいと思うし、できれば、幸せで楽しく過ごしてほしいと思う。
これを偽善という人もいるかもしれない。
だけど、やっぱり、自分にかかわった人たちが困った時はできることなら力になりたいと思うし、みんな楽しく過ごせたらいいなと思うし、それが自分の幸福な気持ちにつながると思う訳なのだ。自分の力は小さくて、出来ることなんて、本当に本当に限られてはいるのだけど。

*1:30代より前がすべて除外されるという意味ではありませんので念のため