信玄・ピュア・ラブ

高坂弾正昌信と武田信玄が、若いころ、衆道関係にあったというのは有名な話ですが、現存(東京大学史料編纂所が所蔵)している、信玄が昌信宛に送った「浮気の弁明状」の中身を(昔、歴史小説かなんかの一節でみたような気がするのですけど)、ついさっき、たまたま別件で検索していたら見かけて*1、面白かったので、つい、エントリをあげてしまうことにしましたw

その前に

日本への制度としての男色の渡来は、仏教の伝来とを同じ時期であるとされる。(略)近代までの俗説的な資料によれば衆道の元祖は弘法大師空海といわれている。

ということで、日本のその道の歴史は古い。私はそういう方向に特に関心高い訳ではないですが、日本史が好きな人であれば、これ*2は、誰でも周知の事実として認識している事項の1つだと思います。

戦国時代は、戦陣に女性を同伴できないため、美しい女性の代わりに美しい小姓を・・・という事が頻繁に行われ、また、主君と性的関係を結んだ家臣は愛情で結ばれているために、殺伐とした戦国でも無二の忠臣となることが多かったようです。「友情」という概念が希薄だった時代なので一種の友情の変形が純化したものと考えられるかもしれません。
ちなみに、歴史的資料から、私たちにはそういうことが頻繁にあったとわかるだけで、当時当人たちはおおっぴらに公言していた訳ではないと思いますが。

んな訳で、浮気の弁明状

一、弥七郎にしきりに度々申し候へども、虫気の由申し候間、了簡なく候。全くわが偽りになく候。
一、弥七郎伽に寝させ申し候事これなく候。この前にもその儀なく候。いはんや昼夜とも弥七郎とその儀なく候。なかんづく今夜存知よらず候のこと。
一、別して知音申し度きまま、急々走り廻ひ候へば、かへって御疑ひ迷惑に候。

この条々、偽り候はば、当国一ニ三大明神、富士、白山、ことには八幡大菩薩、諏訪上下大明神、罰を蒙るべきものなり。よって件の如し。内々宝印にて申すべく候へども、申侍人多く候間、白紙にて。明日重ねてなりとも申すべく候。

     七月五日            晴信(花押)

■私の意訳
一、弥七郎に何回か言い寄ったりましたけど、「お腹痛い」などと言って断られました。ホントです。ホントです。
一、弥七郎に伽をさせ一緒に寝たことはありません。以前にもそんなことはありません。まして昼も夜も・・・なんてことはないんです。だから、今夜しようなどとは考えてもおりません。
一、特にあなたと結ばれたいとアレコレ一生懸命努力しているのに、かえってあなたに疑われて困ってしまいます。

これらのことに、もし嘘があったら、この国の一ニ三大明神・富士・白山の神、更には八幡大菩薩、諏訪上下大明神の天罰をうけるでしょう。本当は、誓いを破るようなことがあればたちまち神罰を被るとされている牛玉宝印の裏に、こっそり書こうと思っていましたが、自分の側に人が多くいるので、人目につかないように普通の白い紙に書いてしまいました。明日になったらもう1度、牛王宝印の誓詞でちゃんと書きます。
     七月五日            晴信(花押)

この手紙は信玄25歳、高坂19歳のときのものではないかと言われています。

一応、どんなシチュエイションか説明すると、信玄が小姓の源助(高坂弾正の若いころの名前)に、「ねえ、2人きりで会おうよ」と誘ったら、源助から「僕忙しいんですけど。弥七郎でも呼べばいいんじゃないすか?」とつれない返事をされ、(やべ、バレた!!)と思った信玄が、あわてて「浮気なんてしてない!してない!あなた一筋に決まってるじゃないですか!!」と手紙を出したと。そんな感じのシーンです。
この手紙、「候」とか「御」とか、メチャメチャ丁寧な言葉を使ってへりくだっているのが、一番の面白ポイント!!
専門家ではないので、そもそも、時代的に家臣の間が割合ラフだったのか、そうじゃないのかわかりませんが、どちらにしても、普通のテンションではないですね。信玄目がハート・・・ってくらい惚れちゃってます。で、とにかく許してほしくてここまでへりくだってるのが、面白い!
「弥七郎にしきりに度々申し候へども」とかいう風に、中途半端に白状してしまっているところとか、「虫気の由申し候」とか「おなか痛いっていうしなにもなかったもん・・・」とか、中学生の言い訳か?もうちょっとなんか言いようないんですかね?とか、「申侍人多く候間」とか言って、「人がいっぱいいるから、みつかるかもしれないからちゃんと出来なかったけど、明日絶対やるから!許して!許して!お願い」とか言う感じ、ちょう笑えます。

*1:ほんとは人力検索の質問に答えようとしてたんだけど、回答書いている途中でブラウザ固まって再起不能になって萎えたので、回答は書かなかった

*2:衆道